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zoom RSS AR以外の電脳コイル:イリーガル

<<   作成日時 : 2009/07/11 08:42   >>

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電脳コイルといえばAR、ARといえば電脳コイルと思われるぐらい
AR(拡張現実)で有名な作品に対して、あえてAR以外の内容に注目しています(T_T)
この作品は、モチーフにはハイテクを使っていますが、テーマは人間の意識や心に触れていて、
とても興味深いです。
攻殻機動隊にも通じるものがあると思いますが、攻機がゴーストという生物の本能に近い観点で
魂を描いているのに対し、電脳コイルは意識、無意識、集合的無意識の階層に重きをおいて
魂を描いたように思います。
人間の役に立つ機器を研究していたら、いつの間にか人間の研究をしていた。
そんなことはよくあることです。

さて、作中には「イリーガル」という不気味な存在があります。
真っ黒で、目と思われる光が2点発光していて、両手両足と思われる突起から
なんとなく人の形を連想させる、正体不明の存在です。
現実世界に存在するだけでダメージを受けるのに、物語の冒頭から色々な人物に追いかけまわされたり、
殺されかけたりと、とてもかわいそうです。
物語には髭のように人間にとりついたり、魚のような形をしていたり、色々とバリエーションがありますが、
ここでは、人型のかわいそうなイリーガルに焦点を当てます。

このイリーガルはどこからやってくるのか。
ここに全ての鍵があります。
作中の世界には、新しい空間と、古い空間があり、どうやらイリーガルは古い空間が
好きなようです。
前にも書きましたが、新しい空間はメガネを通して意識同士をネットした世界であり、
古い空間は集合的無意識を仮想化した世界です。
イリーガルはこの集合的無意識側の存在で、詳細は分かりませんがバグを通して、
意識の世界へやってくる不法侵入者のようです。

作中ではペットを亡くした女の子が、そのペットの面影をイリーガルに見つけたり、
好きな女の子を事故で亡くした男の子が、その女の子の面影をイリーガルに見つけたり、
半ば幽霊や怪談のようにイリーガルが語られます。
これはどういうことでしょうか。

ペットや好きな子を突然亡くしたら誰だって悲しみます。
どんなに明るい人でも気分が落ち込み、抑鬱気分になります。
しかしそれでも、時がたち、日々の生活に追われ、そして楽しい経験を重ねるうちに
悲しみは風化していき、いつの間にか立ち直ります。
では立ち直った時、最初に感じたその悲しみはどこへ行ったのか。
ここが面白いところで、悲しみは消滅したわけではなく、意識から無意識へ移ったので
意識できなくなり、そして元気になるというのが心の働きです。

無意識へ移った悲しみは、やがて人類共通の集合的無意識へとたどり着き、
そこでイリーガルになります。
正確には、古い空間=集合的無意識にいる間はイリーガルではないのですが、
バグによって新しい空間=意識へ発露するとイリーガルになります。
作中でイリーガルは真っ黒な象徴的な姿で描かれますが、このような存在を「影」と呼びます。
影は常に意識によって抑圧されていますが、その存在が大きくなると、意識は抑圧だけに
エネルギーをとられ、生活に支障が出たり、うっかりミスをしたりと、まさに現実世界へ
不法侵入してきます。
これがイリーガルです。

そしてイリーガルがキラバグという宝を持っているという設定も面白い。
無意識を提唱した人は、影の存在は悪であり、それを排除することが治療だと考えました。
しかし、その人の弟子は影こそ心の成長に必要なものだとみなし、意識への統合を試みました。
影と名付けたのは弟子の方なのですが、うまく影を捕まえれば宝物が手に入り、統合すれば
素晴らしい力が得られるというこの作品の設定は秀逸です。

作中のメガバス社はイリーガルを武力的に排除しようとしたのに対し、
コイル社はイリーガルを利用して、無意識を修復しようとしました。
現代社会はメガバス的ですね。
鬱病になっても、薬を飲むだけで、とにかく排除するのみです。
強制フォーマットを毎日しているだけです。
これでは治るはずのものも治りません。
AR 関連で、多くの技術者がみている作品だと思いますが、
精神医療に携わる人間にもみてほしい作品だと思いました。

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コメント(16件)

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以前から電脳コイルの「意識」の扱いに注目していてこのブログに出会いました。攻殻機動隊やユングはあまり良く知りませんでしたが、意識、無意識、集合的無意識に関するお考えについて、特に興味深く拝見させてただ来ました。
アフォーダンス理論の流れで、ロボットのフレーム問題にも関係していたと思うのですが、意識(心)は本来頭の中にあるのでは無くて、環境とのインタラクションの中にあるという考え方があったと思います。電脳メガネのような没入型のVR,ARではインタラクションの相手先として電脳空間の比重が実空間を上回ってしまうかもしれません。そうなってしまった時、意識は何処にあるのでしょうか?
没入型のVR,ARについて
http://www.fine.bun.kyoto-u.ac.jp/tr2/matsuou.html
に面白い論文を見つけましたので、ご一読いただけなると嬉しいです。
ここに出てくる倫理問題(1)は電脳コイル現象のことを言っている様に思えます。
affordance
2009/11/15 00:45
affordanceさん

コメントをありがとうございます。
本ブログは雑記が主で、意識や心理学を専門に扱っていませんが、
興味を持って頂けたようで、とても嬉しいです。

ご紹介いただいたリンク先の論文を拝見しました。
電脳コイルでは、上記論文のような、仮想的なものに没頭してしまう
社会に対して、「眼鏡を捨てる」という選択肢も描いています。しかし、仮想的とは分かりながらも、実際に心で感じた真実は偽れず、主人公は眼鏡の使用を選択します。

没入型であろうが、なかろうが、そして、周りが仮想的であることを知っていようが、知るまいが、心は五感を通じて入力された情報全てを真実として機能します。
その際の意識は、五感を通じて発生する電気信号の中にあるのではないでしょうか。そのあたりの意識の捉え方は映画「マトリックス」が一番分かりやすく表現していると思います。

ちなみに、アフォーダンスという言葉は初耳でした。
とても興味深い理論ですね。
ありがとうございます。
T_T
2009/11/21 01:06
紹介させていただいたリンクをご覧頂き、ありがとうございます。
この論文には社会に対する警告、というような面もありましたが、私自身は純粋にものの捉え方として共感したので紹介させていただきました。

電脳コイル終盤の、心に感じたものが本物、というところ、私も大変重要に思っています。
「我思う、故に我あり」のような、哲学的な結論だと思いました。

アフォーダンスは、その隙間は通れるとか、そのリンゴは食べられるとかいった、生き物の行動にとって意味のある情報のことです。
少し難解ですが、その情報は生き物が居るか居ないかに関わらず環境に存在します。
アフォーダンスの考え方では、環境にある情報を五感に応じて分解しません。
生き物も、五感の情報を頭で分析して行動を決めるようなことをしていません。
何ができるか、という、生き物が進むべき路のような情報(アフォーダンス)が、環境の方に潜在します。生き物の行動というのは、それを直接探す試行錯誤です。
目が見えなくても、耳が聞こえなくても、十分普通に生活できるのは、インターフェースが何であってもアフォーダンスを探す行為に違いは無いからです。
この考え方の重要な点は、「意識」を構成する要素だったはずの情報の「意味付け」を、生き物の身体の中から環境の方へ外出ししてしまったところにあると思います。
アフォーダンスの考え方自体は「意識」や「心」に言及しませんが、その試行錯誤とアフォーダンスの「系」が心だと考える人もいて、私もそう思います。

メガネの子供たちは、毎日、メガネの中でアフォーダンスを探しています。
頭の後ろにグサッと挿す電気のケーブルが無くても、心は既にそこにあるはずです。
メガネで見えるのはただの映像。こんなのメガネを外せば済むこと…だけど私は外さない。
という、「黒い訪問者」の回が好きです。
affordance
2009/11/22 00:07
affordanceさん

お返事ありがとうございます。
まだ、アフォーダンスが未消化です(T_T)
とりあえず理解したのは、情報を送信しているものが環境にあるということです。
分からないのは受信側で、キャッチした情報の意味づけが身体の外にあるという部分が難解ですね。これがアフォーダンスとは主観的な情報で、常に枕詞に「自分にって」とつくのであれば理解はできます。自分にとってこの段差は一足で登れる、というのであれば、情報は外にあるかもしれません。(意識や心は内側のままです。)ただし、それだと自分がいないと意味をなしません。逆に客観的だと、脚の長さで異なるアフォーダンスが発生して、その差分が埋まりません。
送信側と受信側の溝がどうしても埋まらないのです(T_T)

それから、マトリックスの中でビルを飛び移る訓練がありましたね。
主人公は、100m以上先にあるビルへジャンプして飛び移るように言われますが、「飛び移ることは不可能」という思い込みから、訓練は失敗します。この思いこみがアフォーダンスですかね。

さて、意識の位置ですが、アフォーダンスから情報をピックアップするものを意識と呼んでよいのではないでしょうか。
アフォーダンスの入力先が、現実なのか、拡張現実なのか、完全没入型VRなのかで意識の位置は変わらないと思います。
先の論文でもVRでも「アフォーダンス獲得の行動に出るであろう」とは書いてありますが、意識そのものがVRに移動するとは書いてないですよね。
この「アフォーダンス獲得の行動」をする意思はやはり身体内にある意識によるものだと思います。

黒い訪問者の回は怖かったですね。
メガネを外さないのは、外してはいけない理由があったと思います。
T_T
2009/11/22 20:37
お付き合いいただき有難うございます。
疑問はごもっともで、そこが難解なのですが、環境側に客観的にある、という点がアフォーダンスの根幹です。
私も専門家ではないので間違っているかもしれませんが、好きでその種の本をいくつか読んでいるので説明してみようと思います。長文お許しください。
おっしゃる様に、その段差を登れるかどうかは生き物のサイズや能力によって違います。
例えば段差30cmの階段は0歳児には行き止まりをアフォードし、2歳児には手をついて登ることをアフォードし、大人には足を上げて登ることをアフォードしますが、全てのアフォーダンスは環境側に潜在しています。
自分にとってのアフォーダンスは自分が居て初めて出現するのではなくて、自分が居なくても環境の方に潜在していると考えます。そこにやって来た生き物は、潜在しているアフォーダンスを探すだけです。
「行き止まり」「手をつけば登れる」「登れる」というように情報は元々意味を伴って環境にあるのであって、段差の形や寸法、色などを基本情報とは考えません。後者は人が言葉や物理学を使うようになって後から考えたものではないかと思います。
例えば2歳児が階段を目で見た画像を脳に送り、脳が手を付いて登ろうと決めているとは考えません。
たぶん、脳が物理学を使って処理するには問題が難しすぎるのだと思います。
何処から見るかによっても、光の加減によっても、網膜に映る形は全く違います。自分が動けば網膜の像は複雑に動きます。登っても壊れないかも気にしなくてはなりません。表面に模様が描かれていても登ることに影響しませんが、何かが落ちていれば支障があるかも知れません。画鋲が散らばっていれば登れませんがそんなことはあらかじめ予想できることではありません。これが2歳児ではなくロボットなら、何処まで気にしなくてはいけないかを気にして何もできません。
affordance
2009/11/23 22:35
(すみません、800字を超えてしまいました。続きます)
2歳児は「登れる」というアフォーダンスを、いろんな角度から見たり、触ったり、押してみたり、足を乗せてみて、体重をかけてみて、階段とのインタラクションによって環境の中から探します。認知には行動が必須です。
たぶんすっきりはしないと思いますが、感じをご理解いただけたでしょうか?
私もすっきりわかっているわけではありませんが、人に説明すると考えが少し整理できるので楽しいです。
時間のスパンを変えてみれば、これができるのは動物に限りません。植物だって枝やつるを伸ばすとき同じような事をしています。アフォーダンスを探すとき、脳も目も便利な道具ですが、必須ではありません。
意識が環境に広がっていると考えるのは私の拡大解釈かもしれませんが、関係の本を読んでいると、そういう考えをしている人もいると思います。例えば活字のような貧弱なインターフェースでも、読書に没入している瞬間には、意識は現実の環境から遮断されて、物語の中にあると感じます。本の世界から戻れなくなった人は居ないと思いますが、メガネの子供たちの日常は、戻れなくなってもおかしくない程深く電脳空間とインタラクションしています。
黒い訪問者で優子がメガネをはずさなかったのは、京子への心配だけではなくて、外した時に自分の意識がそのまま続くのかどうかに不安を感じていたのだと思います。
affordence
2009/11/23 22:36
すみません、引っ越しをしていまして、
今ようやくネットに繋がったところです(T_T)
無線LANに挑戦したら、これが途切れたり、切断したりで
なかなか大変です(T_T)

大変面白い話をありがとうございます。
環境にデータが潜在しているというのは、
自分の経験、学習、そして生物学的な反射との
リンク先を提供しているということですかね。

環境はサーバーとなって、情報を保持し、
周りの動物、植物はクライアントとなって、
サーバへリンクし、必要な情報を取得する。
そのように考えると、データは環境側に存在します。
これは、自分にとって革命的な発想です。

本の例えが出たので、本を使わせて頂くと、
日本語で書かれた本を、英語しかできない人間が見た場合と、
日本語が母国語の人間が見た場合で、得られるアフォーダンスは
全く異なりますね。
それでも本は本として客観的な情報をアフォードしている、
つまり、サーバーとしてリンクを提供しているわけです。
どの情報を得るかはクライアントの問題なので、差分は関係なく、
また、本は確かに存在しているので、客観的です。

今までの自分は、自分と環境はトランシーバーだと思っていましたが、
クラサバで考える方が自分の経験に近いかもしれないと思いました。
この視点から、電脳コイルを見返すと、また違う発見がありそうです。
なので、「意識が環境に広がっている」という意識の位置に関しては
もう少し考えさせて下さい。
T_T
2009/11/30 01:51
コメント有難うございます。面白くなってきました。
楽しんでいただけているようで、何よりです。
クライアント/サーバーのアナロジー、面白いと思います。気づきませんでした。
意味が環境に潜在するということの説明として、英語の本の話もうまいと思いました。説明させていただいたことをご理解いただけたと感じています。
私も何かアナロジーを一つ…と思っているうち、レス遅くなってしまいました。
急ぐ事ではないと思いますので、のんびりやりましょう。

アナロジーを考えていたら、「インターネットと私」に行き着き、それでは本末転倒ではないか!!と行き詰まってしまいました。ぴったりのアナロジーは存在しないのかも知れません。もし仮にそれが存在したとしたら、人工生命が誕生してしまいそうです。
コンピュータ関連の話が出ているので、いま、「オブジェクト指向」をアナロジーとして考えています。もう少し考えが整理できたらここに書かせて頂きたいと思います。

アフォーダンスに関して興味を持たれましたら、佐々木正人先生の「アフォーダンスー新しい認知の理論」という本は如何でしょうか?私もこの本がきっかけです。岩波科学ライブラリーで定価\1,000ですし、簡潔でわかり易いと思います。
affordence
2009/12/03 00:13
書棚から20年前のSmallTalkの本を引っぱり出してきました。
以下、実際現場で使われているオブジェクト指向プログラミングとは違うかも知れませんが、私が理解しているオブジェクト指向の意味に従って話を進めてみたいと思います。
オブジェクト指向にはいろんな有用な特徴があると思いますが、ここではデータとプログラムが不可分で、全てが「オブジェクト」であるという特徴にだけ注目します。
例えば1+2という計算は、普通なら「1」というデータと「2」というデータを「+」という関数に与えます。加算の方法は「+」が知っています。このとき関数の「+」とデータの「1」、「2」は別物です。
SmallTalkの1+2は、「1」というオブジェクトに「+2」というメッセージを与えます。加算の方法(メソッド)は数値「1」が知っています。
しかし現実には無限にある全ての数値に全てのメソッドをいちいち定義する訳には行かないので、クラスや継承などのオブジェクト指向の特徴が必要になったと考えることができます。
アフォーダンスは、環境のオブジェクトに埋め込まれたメソッドではないかと思います。
全ての情報が集中するCPU、フローチャートや筋書きは無く、私という一つのオブジェクトと環境にある無数のオブジェクトとが平等にメッセージを出し合い、各メソッドを実行するインタラクションによってドラマが生まれます。この時生まれたドラマが意識なのではないかと思います。
ここまで書いて「SmallTalk アフォーダンス」で検索したら、結構ヒットします。何か面白いものが見つかるかも知れません。
affordance
2009/12/05 09:37
なかなか時間が取れず、返事が遅れまして申し訳ありません(T_T)
JavaやC++といった言語は触れたことがありますが、smallTalkはオブジェクト指向の歴史で、名前だけ知っている言語になります。
おそらく、1+2の例えはカプセル化のことをいっているように思います。環境から送られてくる情報を、どのように処理するかはオブジェクトのみが知るわけです。

環境側がGETの抽象メソッドを提供していて、人間が経験から生成したインスタンスでメソッドを実行しているといえますね。
その実行結果が意識といえば意識ですが、全てではなくて「認知」という意識のたくさんある機能のうちの1つが実行されるのだと思います。
認知はAPIみたいなもので、認知をきっかけに多くの意識が連鎖的に作動するので、全てといえば全てかもしれませんけどね。


メガネを外した子供は、メガネによって人為的に与えられたアフォーダンスを失い、自然にあるアフォーダンスを実行する方法を持たず、脱力します。これは現代人の意識をよくあらわしていると思います。
ゲームや、セカンドライフのような、プログラマが分かりやすく示したアフォーダンスに浸かっていると、現実にある自然のアフォーダンスを見失い、意識が思うように動作しなくなります。
逆に、細かいところまで心が届き、気を使える人もいます。このような人は環境とのインタラクションにおいて、豊富なカプセル化されたメソッドをたくさん持っているのでしょうね。
T_T
2009/12/07 01:18
古典的なプログラム、古典的な動物の活動モデルは各々
(入力データ)→(プログラム、関数)→(アウトプット)
(刺激)→(動物(神経系))→(行動)
のように表せると思います。
神経系(プログラム)は刺激(データ)を演算処理して行動(出力)を決めます。
この構造の問題は、全ての情報が集中する「プログラム」が、これから起きるかもしれない全てを予見しなければならない点です。学習機能は対処療法的に応用力を増しますが本質的解決にはなりません。
ロボットは全てをあらかじめ見通せる箱庭で活躍できても、現実の世界では指示された事以外何もできません。
SmallTalkの構造は、
(オブジェクト)←(メッセージ)
の集合です。メッセージも又オブジェクトで、プログラムやデータは現れません。作家の存在(プログラム)が無くても、個々の登場人物(オブジェクト)が勝手に動き出してドラマが生まれるような感じと理解しています。頂いたコメントの、「認知をきっかけに多くの意識が連鎖的に作動する」にも近いと思います。
意味を中枢に集める代わりにオブジェクトに分散した点で、アフォーダンス理論とオブジェクト指向には共通点を感じました。クライアント・サーバーもそうかも知れません。
メソッドはオブジェクトに可能な動作の意味の記述なので、アフォーダンスに類似していると考えましたが、表には現れないので構造は違いました。

ここにある10KByte足らずの文字にも私はT_Tさんの心の片鱗を発見します。その時私の脳が文字からT_Tさんの心を演繹しているのではなく、アフォーダンスとして伝わって来るのだと思います。
私の好きな「黒い訪問者」に関し、アフォーダンス的な一節のお話を考えています。主人公はフミエ。脱力(感)という言葉をお借する予定です。まとまったらここにアップしたいと思います。
affordance
2009/12/13 19:58
smallTalkという言語に興味がわいてきました。
作家がいなくても、個々の登場人物が勝手に動き出すというのは
登場人物や、時代背景を設定し終えた小説家や漫画家が、
波に乗っているときに体験する自動書記に近いものでしょうか。
その状態になると、物語の作り手でさえ、話の流れに逆らえず、
お気に入りのキャラクタを死なせてしまうことさえあるとききます。

オブジェクト指向から一気に話が技術的になりましたが、
本来は「電脳コイルと意識について」なので、affordanceさんの
黒い訪問者のお話を楽しみにしています。

それでは。
T_T
2009/12/13 23:40
私の同僚はオブジェクト指向で有限要素法を解いています。要素が勝手に動いて計算してくれるのでとても便利だそうです。私自身はプログラマーではありませんが、オブジェクトオリエンテッドというのはそういう世界なんだろうと勝手に思っています。たいがいのフィクションは中盤に入るとオブジェクトオリエンテッドですよね。現実の世界なら常にそうです。y=f(x)の形式を取るのは、ヒトの創ったものと、ヒトが勝手に単純化した物理現象位ではないでしょうか?サッチーや電脳ペット、メタバグなどまさにオブジェクトですね。では本題です。

<<贋作、affordance的黒い訪問者>>
メガネで見えるものはただの映像。手で触れない偽物。こんなのメガネをはずせばそれでおしまい。魂があっちに連れて行かれるなんてばかばかしくて非科学的。そう言いながらフミエは心の底から沸き出す不安を抑えらなかった。人型のイリーガルはそこまで迫っている。ヤサコは精神状態がおかしいようだ。私がしっかりしなければ…。
「メガネをはずしましょう。」
そう言ってからフミエは、花屋の前でメガネを外した時の脱力感を思っていた。あの感じは何だろう?読書を中断した時や、映画が終わって我に返る時に感じるそれに似たあの脱力感。そう言えば小さい頃、丸首のセーターを着るのが嫌だった。お母さんに着せてもらう時、丸首のトンネルをスポッと抜けるとお母さんが居ない、という不安があった。自分と外にあったものとのリンクが突然切れてしまうのではないかという妄想。
今メガネを外したら、あの脱力感を感じて、それだけで済むのだろうか?メガネを外した時、もし自分と外の世界とのリンクが切れてしまったとしたら…
結局フミエはメガネを外すことができませんでした。
affordance
2009/12/19 20:12
手で触れないものが偽物なら、見えないけど聞こえるものや見えるけど聞こえないものはどうでしょう?目が不自由な人なら世界にある意味を音などで感じます。見えなくても聞こえなくても、触れなくても、意味は探すことができます。意味は不変項として環境にあります。私たちが行動した時不変なものが本物の意味です。媒介が何かも、それがメガネの中にあるのかどうかも、些細な事です。
精神構造が柔軟な子供たちは、メガネの中で意味を探す事に深く順応できます。しかしその分だけメガネを外す時には大きな精神的負荷がかかります。子供たちは無意識にそれを知っていて滅多にメガネを外しません。大人には理解できないことでした。
もしもその負荷に耐えられずリンクが切れてしまえば、心の存在は外から見えなくなってしまいます。仮にそうなってしまっても孤独な魂が自分の中にあり続けるのでしょうか?それとも魂はその時消えてしまうのでしょうか?
そもそも科学は魂のことなど何も語ってくれません。非科学的だからと安心できる理由などどこにもありませんでした。

このお話の続きは、10年前に遡ります。
猫目、原川、小此木らの黎明期の仕事については次の機会にお話ししたいと思います。

****
余談ですが、SmallTalkは、OS、開発ツール、ユーザーデータ、アプリケーションが渾然一体としています。オブジェクトに徹底志向した結果だと思います。30年前のROM-BASICマシンにちょっと似ています。当時プログラムは敷居が低く、使う人が作るものでした。現実のSmallTalkの敷居は低く無いと思いますが、開発者と言われるアラン・ケイはそんなことも目指していたようです。
自分の使う道具に自分で責任を持てる古き良き時代に、いつの日か戻れる事を願っています。
affordance
2009/12/19 20:13
SmallTalkについて調べてみましたが、カプセル化、継承、多態性がないみたいですね。全てがオブジェクトで、オブジェクト間をメッセージでやり取りする部分をピックアップすれば、アフォーダンスの説明もできるかもしれませんが、表現力が不足しませんか?
なので、自分は多態性を交えて考えてみたら、すっきりと理解できました。何かSmallTalkにこだわる理由でもあるのでしょうか?おそらく、同僚の方が有限要素法を解くツールも、DelFEMのようなC++ベースのライブラリだと思います。

電脳コイルの例えですが、フミエがあそこでメガネを外したらどうなるのでしょうか。現実世界で似た状況を起こすには、目を閉じて自分の部屋から外へ出てみると感覚がつかめると思います。
まず、目を閉じても現実からリンクが切れることはありません。そして、聴覚と触覚からのアフォーダンスを頼りに行動します。しかし、それだけではありません。アフォーダンスを頼りに、記憶と照合して行動するはずです。この記憶とは何か?どこにあって、どのようにアクセスするのか?意識とは別なのか同じなのか?考えてみてください。個人を抽象クラス「人間」の実装オブジェクトとして、多態性を考えれば分かると思います。

>当時プログラムは敷居が低く
これはさすがに冗談ですよね。低かったのは要求レベルです。だから個人で作れましたが、今は違います。ブラウザ1つとっても、IE未満のブラウザは見向きもされません。なので、GPLや商用のブラウザを使うわけです。技術は蓄積され、そのさらに先を我々は要求されるので、当然の流れです。
T_T
2009/12/20 18:54
風呂敷を広げ過ぎでした。同僚が使うのは、たぶんC++で作ったものです。Basicは冗談ではなく、技術が進み要求が高まるにつれ一般人が道具との一体感を失って行く時代の流れに抵抗したくて、つい脱線しました。SmallTalkは実用性は兎も角、1+2からUIまで全てがオブジェクトだけで成り立つ不思議に惹かれました。
本題に注力します。
ちょっと実験してみました。耳栓型イヤホンで音楽をかけ、歩きながら目を閉じると(危ないですが)ふわっとした感じを覚えます。ただ目をつぶるだけでは、音の為リンク感が消えません。目をつぶって横になり、暫く静かにしていれば、リンクが切れて眠ります。毎日の事ですが、不思議です。この議論の発端の、無意識の世界(→古い空間)にも通じそうです。古い空間の深い所でメガネを外した時、催眠術に掛かったようにして意識が飛んでしまう、と考えています。
記憶には脳内の記憶と脳外の記憶があります。脳外記憶の安易な例は手帳ですが、例えば怪我をすれば傷跡が脳外記憶の機能をします。自己や環境の意味ある変形は脳外記憶になります。脳外記憶に頼る場面は多いと思います。脳が小さくても知的に振る舞う蜂等の小動物は脳外記憶を上手く使うのだと思います。脳外記憶とアフォーダンスは似ています。同じものの別の見方かもしれませんが、まだ上手く整理できません。意識から見れば脳内記憶も脳外記憶も保存場所が違うだけで、どちらも道具(リソース)の一つだと思います。「論理」もそうです。
人の脳は16TBだそうです。記憶は科学で解明できますし、工学が記憶や論理の機能を作ることは容易です。
でも意識は違います。
私の遺伝子の殆どは人間共通のメソッドですが、私は人間クラスを参照しません。
私の体は、自身が持つ不完全なコピーに従う独立のObjectだと思います。
affordance
2009/12/26 23:43

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